今回は、元プロレスラーの川田利明について書いていきたいと思います。
目次
川田利明の身長は?
川田 利明(かわだ としあき、1963年12月8日 – )は、日本のプロレスラー、実業家、調理人、タレント。栃木県下都賀郡大平町(現:栃木市)出身。プロレスラーとしてはフリーでタレントとしては太田プロダクション所属。2010年以降、プロレスラーとしての活動は休業中である。
「名勝負製造機」とも称される試合巧者振りとキック主体のハードなレスリングスタイルが特徴である。『週刊プレイボーイ』2010年10月4日号でのインタビューで川田は「この1年で体重が15kg減った」「居酒屋経営の傍ら病院通いが続いていてリングに上がれる体調ではない」と語っている。当面は居酒屋経営に専念する模様である。
長年の激戦でカラダにいろいろ古傷があるんでしょうね。きっとリング復帰はないですね。
川田利明の嫁は?
現在ラーメン屋を夫婦で経営しているということなんで、結婚はしていると思います。が、公表されてないので詳しくはわからないですね。また子供もいるかどかわからないですね。
プロレスラーによくあるんですが、結婚してるとか奥さんを公表しないことが多いですね。
川田利明は、現在はラーメン屋?
「名勝負製造機」とも称される試合巧者振りとキック主体のハードなレスリングスタイルが特徴である。『週刊プレイボーイ』2010年10月4日号でのインタビューで川田は「この1年で体重が15kg減った」「居酒屋経営の傍ら病院通いが続いていてリングに上がれる体調ではない」と語っている。当面は居酒屋経営に専念する模様である。
2011年7月には『Dropkick』のインタビューに応じ、三沢の死によってプロレスに魅力を感じなくなったことが大きな要因であるとしている2017年10月、秋山準・大森隆男デビュー25周年記念セレモニーで、花束贈呈のため全日本プロレスのマットに上がる(この時は小橋、橋誠らとともに花道を通ってリングに上がった)。
2010年の6月12日にオープンし、当初から気になっていて
場所は昔全日本プロレスの合宿所があった砧にほど近い喜多見にあり、
ウチから比較的近所でしたが、なかなか行く機会がありませんでした。
デンジャラスKならぬ、麺ジャラスkって、まあネーミングはいいですけどね。
そして、ついに昨夜行く事が出来ました。
アクセスは悪い場所ですが、お店脇には駐車スペース3台分(無料)もありました!
私が訪れたのは23:00位で、先客3組5名。
本当に川田選手がいるのか!?
と恐る恐る厨房を見てみると、本当にいました!!Σ(・ω・ノ)ノ!
厨房は川田選手お一人のようで、ホールは奥様が担当されてる模様。
お店はラーメン屋さんというより居酒屋さんのような感じで
お客さんはおつまみ+ワインやビールを飲んでいました。
メニューを開くと、とりあえずメニューの多さに驚き!!
ラーメンは4種類位だったと思いますが、
その他お酒のお供に良さそうなメニューがズラズラと。
お店が『めんと唐揚げ』と謳っているだけに、
メニューの1番初めに載っていたのは唐揚げでした。
唐揚げってまたカラダに悪そうなメニューですね。プロレスラーらしく肉料理をふるまって欲しいっですね。
とりあえず、
『味噌カレーK麺』 850円
『麺ジャラスK』 950円
『唐揚げS(2個)』 350円
を注文しました。
『味噌カレーK麺』はカレー風味のラーメンで
正直この日の気分はラーメンでもカレーでもなかったのですが、
一口食べてみると、今まで食べたことない味で且つ美味しかったので、
スイスイと食べてしまいましたww
私はラーメンが好きで美味しいというお店は食べ歩いてきました。
本当に美味しいラーメン屋さんだとスープまで飲み干してしまうのですが、
なかなか飲み干すお店というのは実際ありません。
しかし今回食べた『味噌カレーK麺』は私好みだったので、
スープを9割飲んでしまって自分でもビックリ。
内心にはこれからも頑張ってほしいという想いもあって、
9割り飲んだというのもあるのですがww
一方、相方が注文した『麺ジャラスK』ですが、
メニューには激辛ではありませんが辛いのが苦手な方はご遠慮下さいと書いてありました。
実際すっごい辛そうなので私は一口も食べてませんが、
すんごい辛いみたいですww
唐揚げは普通の唐揚げなのですが、下味がしっかりついていて美味しかったです☆
そして私から見た川田選手の今までの印象は、
無口というか言葉が少ない選手で笑顔もそんなに見たこともないのですが、
お店での川田選手はお客さんと奥さんを交えて楽しそうに会話をしていたりと
気さくな雰囲気でした。
1年間某ラーメン店で修行したというだけあって、ラーメンの湯きりも
ラーメン屋さんの店主そのものでした。
うろ覚えなのですが、お店を出した経緯に関して以前コメントで、
やはり三沢さんの事故が大きなきっかけとなったようでした。
今までで最高のパートナーと言っていた三沢さんが亡くなった事で
プロレスの危険性や命の尊さを再認識し、引退後の人生を考えた結果のようです。
怖い危険な試合ばかりだったんで、命の心配をあいなくてもいいようになりましたね。ラーメン屋なら過労以外では死ぬことはないですからね。
更に川田選手自身も身体の調子が良くないようで病院に通いながらお店を切り盛りしているようで
だいぶ小さくなっていました。15キロ痩せたとか・・・。
そんな厨房の川田選手の姿を見て、やはりリングに上がるのは難しいのかなと
寂しい気持ちになりました。
(実際川田選手自身もリング復帰は難しいと仰っていたようで・・・)
また、wikiによると
プロレス界の風習となってしまった「引退→復帰」の流れを極端に嫌っているため、
「俺がプロレス辞める時は
『引退』ではなく『休業』ということにしてくれ」
と述べている
とあるように、
事実上は引退という事なのかな、見て更に寂しい気持ちになりました。
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事実上は、引退なんですね、休業という言い方でいますけど復帰することはないものであると思います。
しかし、川田選手が三沢さんの死を機に真剣に将来を考えた結果が現在に至るのであれば、
今までプロレス界を盛り上げてくれて、多くの人を熱い気持ちにさせてくれた選手だけに
引退してからもずっと応援したいと思います。
お腹は張り裂けそうな位イッパイだったのですがスープを9割り飲むという事、
帰りがけには厨房にいる川田選手に『美味しかったです』と声をかけて、
リングサイドでの応援はもう出来ないかもしれないけど、
今後はラーメン屋さんのお客さんとして応援出来たらイイナというのが私なりの気持ち。
ラーメンや居酒屋として第2の人生を生きているって素敵ですね。
「いつ潰れるかわからないから、潰れる前に来てほしい」
と川田選手が以前コメントしていましたが、
私がお店を後にする頃には閉店20分前だというのにお客さんは増えていました。
是非お近くに行った際は立ち寄ってみてください。お店はコチラ
私も機会を作ってまた行きたいナと思いますので、
次はスープを全部飲み干してきます (
いつつぶれるかわからないって確かにそうですけども。謙虚な川田選手なんですね。
川田利明と三沢光晴の関係は?
1990年、天龍や冬木がSWS旗揚げに伴って全日本を離脱(川田も誘いを受けたが残留している)。大量離脱後の初の試合で2代目タイガーマスクとタッグを組み、以降は鶴田超えを果たす為、三沢らと超世代軍を結成。三沢とのコンビで世界タッグ王者に就いた。なお、大量離脱後にタイツを現在の黒と黄色のものに替えている。
黄色のタイツが本当にまぶしかったですね、とてもよく似合っていましたけどね。
1992年、旗揚げ記念大会で三冠タイトルをかけて三沢と対戦。この後鶴田が病気で戦線を離脱したため、川田は三沢に次ぐNo.2の地位に立った。全日本が対ガイジンから日本人対決にシフトしていたこともあって、三沢との超世代軍タッグを解消。鶴田とのタッグで次第に実力を積み重ねていた田上明と聖鬼軍を結成し、三沢や小橋健太(現・小橋建太)らと争った。田上とのタッグでは度々王座に就き、個人でも1994・1997年にはチャンピオン・カーニバル優勝、三冠ヘビー級王者も5度(12代、18代、21代、28代、32代)獲得した。
リング外でもこんな光景があったんでしょうかね?
1997年、チャンピオン・カーニバル決勝で、入門から15年にして初めてシングルで三沢から勝利。1998年5月1日の全日本初の東京ドーム大会において、三沢が持つ三冠ベルトの挑戦者、そしてメインイベンターに抜擢された川田は、体重を減らし(当時は105kg)褐色ボディに変貌させて試合に臨み、三沢から三冠タイトル戦での初勝利を奪った。試合後、川田は「プロレス人生で一番幸せです。今が!」と大会の最後を締めくくった。
しかし、1999年1月22日大阪府立体育会館の三沢との三冠戦で三沢を破ったものの、試合中の怪我によりベルト返上を余儀なくされたように、1990年代終盤から度々の負傷に見舞われ、完治する前に強行出場し、意地でリングに上がる日々が続いた。この頃までに三沢にシングルで計3回勝利(全日時代後半は殆どが川田の勝利)し、実力の面でも三沢と同等の評価を受けた。
馬場死去 – 選手大量離脱
1999年1月31日、馬場の死去に伴い、三沢が全日の代表取締役社長、川田も副社長に就任した。しかし、2000年に三沢を中心に殆どの所属選手・フロント陣が全日本プロに辞表を提出し、結局選手として残ったのは川田と渕正信、そしてマウナケア・モスマン(現・太陽ケア)の3人だけであった。この時川田は「(離脱するという話を三沢や田上から)聞いていない」と語り、「全日本の看板を捨て切れなかった」と残留の理由を語っている。
実際のところはわからないですね、この時から三沢川田の仲が良くないために
決別したといってもいいですしね。
実はこの大量離脱のきっかけとなった事件、「三沢光晴代表取締役社長辞任」の数日後に川田1人だけ全日本との契約を更改した。この当時の全日本では1試合幾らの計算で給料が支払われる上、怪我・入院・休場等に関する保障が一切無かった。また、一般の生命保険にもその職業柄加入することが出来ず、休場即ち無給の日々が始まるという状況だった。加えて給与そのものも、当時の全日トップの三沢と新日トップの武藤敬司とでは3倍の違いがあると言われていた。全日本の選手が怪我をしても無理してまでリングに上がっていた理由の一部はここにあり、三沢が改革を実施しようとしていた最重要部分でもあった。当時の川田は休場中の治療費等が嵩み、会社(事実上は馬場元子)から借金していたと言われ、ポケットマネーを治療費として出してくれる馬場の死後は金銭的にも事欠くことが多かったらしい。会社への借金があるために皆が渋っていた契約更改を余儀なくされ、結果離脱できなかったとも、欠場中も川田だけギャラが支払われていたために残留したという話もあるが、真相は定かではない。なお、この頃「一選手としてやっていきたい」という理由から副社長を辞任した。
三沢との5年ぶりの戦い
2005年7月18日、プロレスリング・ノアの東京ドーム大会で5年4か月振りに三沢光晴と対戦。超危険技を互いに出し合った末、三沢がエルボーで勝利。しかし両者(特に三沢)のコンディションが非常に悪く全盛期とはほど遠い内容となり、前の試合の小橋対佐々木健介の試合に喰われた形となった。試合後のマイクで川田は「三沢さん、あえて握手はしません。ずるい話かもしれないけど、今日打つはずだった終止符が打てなくなりました。三沢光晴はいつまでも、オレの1つ上の先輩の力を持っていてください」と述べたが、ノア経営陣は川田のこの対応に激怒し「ノアマットへの継続参戦は不可能になった」とコメント(2006年1月サムライTVにて)。後日、ノア取締役である仲田龍は番組(プロレス格闘技DX)内で、「川田をノアのマットに二度と上げることはない」と改めて断言した。また、川田はこの試合後、控え室の敗戦インタビューで「5年間やってきた事がこの1試合で台無しとなった」とコメントした。
決しては、川田と三沢は仲がよかったわけではないんですね。いろいろな悶着
があったということは窺いしれますね。
川田利明は、病気なの?
事実上の引退した川田選手ですが、いままでの激戦でカラダがぼろぼろなのは事実ですね。
これといった癌とかはないですが、あれだけ鍛えまくっていた筋肉が落ちてしまって、やせてみえるということはあるようですね。
何かの病気で痩せたとか
癌だとか色々言われてますが
川田さんはめちゃくちゃ健康ですよ
むしろプロレスしてた頃より健康なんじゃないですかね
ただ蓄積ダメージ等で身体のメンテナンスで病院には通われてるみたいです
筋肉が落ち支えが無くなって思いもよらぬ箇所が痛みだしたりするみたいですプロレスは休業中です
事実上の引退ですので復帰することはまずないでしょうね。本当にカラダを酷使していたんで復帰はないですよ。
現在は【麺ジャラスK】という居酒屋をしてます
痩せた理由は居酒屋が大変だからですね
仕込みから調理を全て川田さん自身がやってるので居酒屋ですがお酒が飲めなくても
ソフトドリンクがジョッキで出て来るのでお得です
おつまみは量より質重視ですね場所は成城学園前となってますが、渋谷行きのバスに乗り【東宝前】で降りた方が分かりやすいかと
降りたら世田谷道りを登戸方面へ歩いていけば左手に黄色い看板が見えて
来るのですぐわかるかと
飲食業などで生計をたてる引退レスラーは多いですが、川田選手にとっては向いているように思われますのでがんばって欲しいですね。
https://sebastianoarmelibattana.com/2018/12/24/post-3507/