三船敏郎の妻や子供は?若い頃はイケメン?身長や海外の反応は?

今回は、世界のミフネで有名な俳優の三船敏郎について書いていきたいと思います。

三船敏郎の妻は?

そんな三船さんの、
気になるプライベートなのですが、

三船さんは、1950年、
「東宝第一期ニューフェイス」の同期だった、
女優の吉峰幸子さんと結婚されています。

三船さんと吉峰幸子さん。

結婚生活は、当初は良好で、
2人の息子さんを設けられたのですが、

1970年代に入ると、
酒乱が原因で、三船さんが、
奥さんから家を追い出される形で別居。

ただ、奥さんは、
自分から三船さんを追い出したものの、

そんな行動とは裏腹に、
三船さんとの関係修復を望まれていたと言われており、

三船さんの方から、数回に渡り、
離婚を迫られてもこれを拒否。

奥さんは、最後まで、
離婚に応じなかったそうです。

内縁の妻で娘は、三船美佳

一方、三船さんは、
奥さんとの離婚裁判中に、

映画で共演された、
女優の喜多川美佳(本名:大野照代)さんと交際。

当時の喜多川美佳さん。

1974年、アメリカのフォード大統領を、
迎賓館に招いた歓迎晩餐会では、
喜多川さんを妻として同伴し、
出席されていたとか。

さらに、1982年に、
娘の美佳さんが誕生すると、

喜多川さんと娘の美佳さんを連れて、
マスコミの前に現れ、
親子3人の写真を撮らせていたとも。

三船さんは、喜多川さんを、
公の場で、堂々と、
奥さんとして扱っていたようです。

三船美佳の母親は?

本妻の元へ

しかし、1992年、
三船さんが「心筋梗塞」を起こして倒れると、

なんと、三船さんは、喜多川さんから、
関係を解消されてしまいます。

そして、そんな三船さんを引き取り、
看病を希望されたのは、
本妻の幸子さんだったのでした。

以降、奥さんは、
体調のすぐれない三船さんを献身的に看護され、
晩年の夫婦仲は円満だったのですが、

1995年、
奥さんが先に他界。

その2年後の1997年、
三船さんも他界されたのでした。

三船さんの遺作となった1995年「深い河」より。

さて、いかがでしたでしょうか?

戦後、日本が産んだ映画スターとして、
黒澤監督の映画に数多く出演し、
世界を魅了した三船さん。

自ら世界に売り込み、
活躍する日本人は数多くいますが、

日本人としての姿勢を崩さず、
むしろそれを買われて、海外の監督から、
数多くオファーを受けたのは、三船さんだけ。

時代背景もありますが、もう、
三船さんのようなスーパースターは、
二度と出てこないことでしょう。

是非、この機会に、
三船さんの出演作品をご覧になってみては?

さすがは、国際派の俳優でありますね。

三船敏郎の若い頃はイケメン?

こちらの写真でわかるとおりかなりのイケメンですね。

三船敏郎の出身は?身長は?本名は?

三船さんは、1920年4月1日生まれ、
中華民国山東省青島市のご出身です。

身長174センチ、

血液型はO型、

学歴は、
(中国の)大連中学卒業、

趣味は、車と船で、
1952年型MG-TD、1962年型ロールスロイスシルバークラウド、
オールドモービル、ジャガー、メルセデスベンツ、モーターホーム等多数所有。

特技は、
剣術、乗馬、射撃、

ちなみに、
三船敏郎は本名です。

身長が174センチというのは本当なんでしょうか?サバ読みであるとの推測がありますが

そして、1945年、
三船さんは、特攻基地で敗戦を迎えると、
復員服のままで上京。

三船さんは、大山さんとの約束を頼りに、
大山さんを訪ね、撮影助手を願い出ます。

しかし、なぜか、三船さんは、
俳優の面接を受けることに・・・

これには、2つの説があり、

一つは、何かの手違いで、
三船さんの志願書が、俳優志願の申込書の中に、
混ざってしまったという説。

もう一つは、本土復員に伴い、
復帰社員が増加したことから、
縁故採用が難しくなったことで、

大山さんから、

とりあえず、「第1回ニューフェイス募集」
をしてるから受けてみろ、貴様の面なら合格するはずだ、
入ってしまいさえすれば撮影助手に呼べるからな。

と、助言を受けたため、

不本意ながら、俳優志望として、
面接を受けたという説。

さておき、三船さんは、
俳優の面接を受けられたのですが、

審査員から、

「笑ってみてください」

と言われた際、

「面白くもないのに笑えません」

と、ふてぶてしい態度をとってしまい、
その結果、不合格に。

ふてぶてしい態度ってどんなのですかね?

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黒澤明との出会い

しかし、三船さんは、面接会場に居合わせた、
女優の高峰秀子さんの目に止まり、

高峰さんが、三船さんの存在を、
映画監督の黒澤明さんに知らせると、

三船さんを見に駆けつけた黒澤さんも、
三船さんに対し、ただならぬ予感を感じられたそうで、

三船さんは、「東宝第1期ニューフェイス」の、
補欠として採用されたのでした。

映画デビュー

それでも、三船さんは、
撮影部に所属することにこだわり、
俳優になる気はなかったそうですが、

野性的な男を探していた、
映画監督の谷口千吉さんに口説き落とされ、

「銀嶺の果て」で映画デビュー。

「銀嶺の果て」より。

三船さんは、この映画で、
雪山で遭難する3人のうちのひとりを、
演じられるのですが、

黒澤監督は、この映画を見て、
三船さんの類まれなる才能を確信されたのでした。

黒澤明と出会うことで海外でも活躍のできるスターになっていったんですね。

そこにはもちろん三船の元からの才能もありますが、いろいろ紆余曲折があってたいへんだったでしょうね。

映画スターに

そして、三船さんは、1948年、
黒澤監督の映画「醉いどれ天使」で、

破滅的な生き方をする、
ヤクザ役を演じ、一躍スターに。

「醉いどれ天使」より。志村喬さんと三船さん。

黒澤さんは、三船さんについて、

彼は表現がスピーディなんですよ。

一を言うと十わかる。
珍しいほど監督の意図に反応する。

日本の俳優はおおむねスローだね。
こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は。

と、語っておられます。

この映画は、大ヒットを記録し、
ロングラン上映が決定。

舞台化もされ、三船さんは、
主演の志村喬さんとともに、
全国を巡られたのでした。

三船さんは、その後、

1949年「静かなる決闘」
「野良犬」

「静かなる決闘」より。

1950年「醜聞(スキャンダル)」
「羅生門」

「羅生門」より。

と、黒澤さんの映画で、
次々と主演を務めると、

1951年には、「羅生門」が、
「ヴェネチア映画祭金獅子賞」を受賞し、
「世界のミフネ」の起点となったのでした。

羅生門は、本当に有名ですね、味のある演技がよかったんではないですかね。

海外の反応は?世界のミフネへ

また、
1954年「七人の侍」では、
「ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞」
「アカデミー美術賞・衣装デザイン賞ノミネート」

七人の侍はエンタメ映画として有名ですね。

「七人の侍」より。

1961年「用心棒」では、
「ヴェネツィア国際映画祭男優賞」
「アカデミー衣装デザイン賞・作曲賞ノミネート」

「用心棒」より。

1965年「赤ひげ」では、
「ヴェネツィア国際映画祭男優賞・サン・ジョルジョ賞」

「赤ひげ」より。

と黒澤さんとともに三船さんの名が、
世界に知れ渡るようになると、
三船さんのもとには世界中からオファーが。

三船さんは、日本映画の出演を優先し、
ほとんどの依頼を断られていたのですが、

それでも、

1961年「価値ある男」(メキシコ)
1966年「グラン・プリ」(アメリカ)

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「グラン・プリ」より。

1968年「太平洋の地獄」(アメリカ)
1971年「レッド・サン」(フランス・イタリア・スペイン)
1975年「太陽にかける橋 ペイパー・タイガー」(イギリス)

外国でたくさんの賞をもらっているというのはすごいですね、日本人がハリウッドに行くのを、道をひらいた人間であるといっても過言ではないですね、

「レッド・サン」より。

などの海外作品に出演され、
海外のスターと共演を果たされています。

以降、三船さんは、俳優業の傍ら、
バラエティ番組の出演、映画プロデューサー、
三船プロダクションの社長など、
様々な分野で活動をされ、

1997年、多臓器不全で、
他界されています。

まだまだ映画出て欲しかったですけどね、世界の三船としての爪跡は残せたんじゃないでうかね?

父の職業は写真業

三船さんが5歳の頃、
一家が、中国・大連に移り住み、
お父さんがそこで、「スター写真館」を開業されるのですが、

そのことが、後の三船さんに、
大きな影響を与えます。

というのも、三船さんは、
20歳になり、兵役に就くのですが、

写真の知識と経験があることから、
満州国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属されると、

そこでも写真の腕を見込まれ、
航空写真を扱う、司令部偵察機の偵察員に。

さらに、頼まれて撮影した、
上官の家族の写真の出来栄えが良かったことから、

教育隊に残るように命じられ、
三船さんは、戦地に赴くことなく、
生き残ることができたのだそうです。

ちなみに、先輩兵である大山年治さんからは、

俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、
満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる。

と誘われるのですが、

戦況が激しくなったことで、
満期除隊はなくなってしまい、

以降、三船さんは、
敗戦まで、6年間兵役に就くことに。

戦争末期には、
熊本の特攻基地隊に配属され、

出撃前の隊員達の遺影を撮るという、
辛い仕事に従事されたのでした。

戦時中はたいへんであったみたいですね、でもその経験こそがのちの映画出演に役立っているのではないかと思います。

三船敏郎の家系図は?

三船敏郎の晩年を汚した喜多川美佳との四半世紀に及ぶ不倫関係

三船敏郎は、俳優としての名声とともに、晩年の泥沼不倫が有名です。三船敏郎の結婚は意外に早く、1950年、30歳のときのこと。東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚し、長男の史郎、次男の武志をもうけます。1970年頃まで、20年近くは、それなりに夫婦生活が続いていました。しかし、家庭内での三船敏郎は、亭主関白で酒乱。DVは当たり前の、極めて古いタイプの男性だったようです。

三船敏郎は、年々酒乱がひどくなり、とうとう妻である幸子に家を追い出されてしまったとか。三船敏郎は、以後数回、幸子夫人に離婚を申し立てますが、彼女は、死ぬまで離婚を決して承知しませんでした。そんな離婚訴訟の最中、三船敏郎は、自身の設立した「三船プロダクション」に所属する、自分より28歳も年下の女優、喜多川美佳と不倫関係に陥ります。

不倫関係をしていたんですね、精神的に辛いものがあったのかもしれませんが、あまり芳しくないのではないでしょうか?

三船敏郎が御年62歳の時に生まれた女の子は泥沼離婚劇を演じた三船美佳

三船敏郎

三船敏郎の不倫相手であった女優の喜多川美佳は、なんと、長男の三船史郎の2つ年上なだけでした。三船敏郎は、この若い愛人に溺れ、1982年、62歳の時、ついに女の子が生まれます。この女の子こそ、歌手の高橋ジョージとの泥沼離婚劇で話題となった、三船美佳です。ちなみに三船美佳は、まだ16歳の時、24歳も年上の高橋ジョージと結婚しています。

離婚もできないまま、喜多川美佳との不倫関係が続いていた三船敏郎は、さすがに心労が重なったのか、1992年、心筋梗塞で倒れました。すると、喜多川美佳が一方的に愛人関係を精算。三船敏郎は、看病を希望した幸子夫人の元に戻り、ここに、四半世紀に及ぶ不倫関係が解消されました。そして、1995年には本妻の幸子夫人が、1997年には三船敏郎が、この世を去ることになります。

三船美佳って愛人の子供だったんですね、本妻の子ではないので三船は芸名だそうですね。

三船敏郎に映画「スター・ウォーズ」出演オファーが!?海外の反応は?

三船敏郎の画像 p1_8

三船敏郎にジョージ・ルーカスがオファーした超人気シリーズの役柄とは?!

三船敏郎は、2016年、ハリウッドの殿堂入りを果たしましたが、ハリウッドをはじめ、海外においては、黒沢明監督と共に、日本人俳優として高い評価を得てきました。実は、ジョージ・ルーカス監督が、「スター・ウォーズシリーズ」第1作目を制作する時、オビ=ワン・ケノービ役をオファーしたというのは、有名な話です。三船敏郎は、子供だましのSF映画程度にしか思わなかったらしく、即座に断ったといいます。

結局、オビ=ワン・ケノービ役は、イギリスの名優、アレック・ギネスに決まりました。ジョージ・ルーカス監督はなおも食い下がり、ならばダース・ベイダーの役はどうかと、あらためてオファー。しかし、やはり返事はノーだったそうです。ジョージ・ルーカス監督は、もし三船敏郎がダース・ベイダー役を受けていたら、仮面はつけさせなかったと語っていたという話もあります。

三船敏郎がオファーを受けていたら全く違った作品になっていたかもしれない「スター・ウォーズ」

三船敏郎は、1960年代の終わりになると、たしかに「太平洋の地獄」や「レッド・サン」といった海外映画に出演しましたが、興行的には決して成功したわけではありませんでした。一方の「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」の公開は1977年。

もし、三船敏郎が、オビ=ワン・ケノービ役、あるいはダース・ベイダー役を受けていたら、スター・ウォーズシリーズは、今とは全く違ったものになっていたでしょう。そして、三船敏郎自身の晩年の人生もまた、泥沼不倫に陥ることなく、映画人として、さらに世界に羽ばたいていたことも間違いありません。

スターウォーズでオビワンケノービをやっていたかもしれないとは、わくわくしますね。

三船敏郎と黒澤明監督の新たなエピソードを見出した日系アメリカ人によるドキュメンタリー映画「MIFUNE:THE LAST SAMURAI」

三船敏郎の再評価は、ハリウッドだけでなく、アメリカのインディーズ映画界にも広がっています。2016年には、日系アメリカ人のスティーブ・オカザキ監督による映画「MIFUNE:THE LAST SAMURAI」が公開されました。内容は、黒澤明監督、三船敏郎主演の「羅生門」「七人の侍」「用心棒」など名作の貴重映像と、当時2人と親交のあった俳優やスタッフたちの豊富なインタビューで構成されたドキュメンタリー。

これまで知られていなかった2人のエピソードが語られ、話題となりました。スティーブ・オカザキ監督の取材によると、撮影現場での三船敏郎は、非常に謙虚で、撮影スタッフにも誠実であったとされています。これは、一兵卒として経験した、戦争体験によるものだったそうです。

また、「赤ひげ」以降、三船敏郎が、黒澤監督の映画に出演しなかったのは、決して仲たがいしたわけではなかったという説をとっています。三船敏郎は、黒澤作品に出演したかったけれども、自ら起こした「三船プロダクション」を維持する上では、長期の拘束もやむを得ない黒澤作品に出演することは不可能だったと説明しました。

いずれにせよ、日系人という独自の視点から描いた、黒澤明監督と俳優三船敏郎の関係性は、たいへん新鮮です。2人を知らない若い世代にとっても、彼らの偉大な業績を知る上で、非常に分かりやすい作品となっているのではないでしょうか。

スターウォーズえはなく黒澤作品に出たことで三船自身の人生も大きく変わっていったのであると思われますね。

三船敏郎の息子

三船敏郎の画像 p1_3

三船敏郎さんと吉峰幸子さんの間に誕生した2人の息子。

2人息子がいるんですね、どういう道を目指しているんでしょうね?

長男の三船史郎さんは俳優として活動する傍ら、父である三船敏郎さんが設立した三船プロダクションの代表取締役社長も務めています。

大学在学中から映画に出演するなど俳優として活動していた三船史郎さん。
大学卒業後に三船敏郎さんがミュンヘンで開いた「ジャパン・レストラン三船」の支配人を務めていたこともありました。

三船史郎さんの出身大学は成城大学経済学部。
大学で学んだ経営の知識を早くから試してみたいという気持ちがあったのかもしれませんね。
その時の経験が今の三船プロダクションの経営にも活かされていることでしょう。

なお、次男については全く情報がありませんでした。
三船敏郎さんの息子なので少しでも芸能界と関わりがあれば情報があるはずです。

そのため芸能とは関係のない世界を選んだと思われます。

長男はやはり、父の背中をみているんですね、同じ俳優の道をえらんでいるって素敵なんじゃないですか?

三船敏郎の孫も俳優に?

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今もなお日本芸能界に多大なる影響を与えている三船敏郎さん。
そのためか三船敏郎さんの孫も俳優として活動しています。
三船敏郎さんの孫で俳優として活動しているのは三船力也さん。

三船力也さんは三船敏郎さんの長男である三船史郎さんの息子。
インターナショナルスクールを卒業後、上智大学に進んだインテリの三船力也さん。
目力の強さは三船敏郎さん譲りでしょうか。

なんと息子が俳優になっただけではなく、孫も俳優をやっているということだそうです。

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